たのしむをつづる

古墳のある風景 

「大和朝廷の勢力が及んだ北限」と「それ以北」の境目 

胆江地方の街道筋を歩くと、実に様々な史跡を目にする。
まさに史跡は先人たちの歩みを刻んだモニュメントなのであるが、なかでも「遺跡」といわれるものは、既に役割を終えて土中に静かに眠っている。現代の日々の生活において遺跡を意識する機会はそう多くはないだろう。

国道397号線を西に進むと、胆沢南都田に巨大な「塚」が出現する。頂部に立つ一本杉が特徴的だ。これは「角塚」と呼ばれ、「さよ姫」伝説で知られる『掃部長者(かもんちょうじゃ)』の説話が地元で語り継がれてきた。

それによると、村を荒らす大蛇の生贄となるべく、肥前松浦からやってきたさよ姫が、薬師如来と法華経の法力によって逆に大蛇を折伏(しゃくぶく)。仏法に伏した大蛇からは角が抜け落ち、その角を埋めたのがこの角塚なのだという。

こうした地域伝承があったからこそ、「角塚」は今日まで守り伝えられてきたわけであるが、その実体は今から1,500年前に築造された「前方後円墳」である。
古墳といえば、誰もがあの美しい「鍵穴形」の平面形を思い浮かべるはずだ。この円形の主丘に方形の突出部が接続する形式の古墳を前方後円墳という。各地の首長を葬るための巨大な墓として築かれ、このような古墳が全国的に造られた時代が「古墳時代」である。

前方後円という形は、大和地方特有のもので、角塚古墳の存在はこの地域まで大和王権の勢力が拡大していたことを意味している。しかし、角塚以北には前方後円墳は全く確認されていない。つまり、角塚古墳が本州最北端の前方後円墳であるのと同時に、大和王権の力がおよんだ北限ということになるだろう。

角塚古墳の全長は約45m、墳丘の高さは4.3m、濠(ほり)で囲まれた古墳の斜面は葺石(ふきいし)で覆われ、様々な埴輪が並べられていたことが、これまでの発掘調査などで判明している。この古墳でも亡くなった権力者の葬送儀礼や後継者の即位式のような儀式が行われていたのであろう。

出土した埴輪も豊かである。
円筒埴輪や朝顔形埴輪の典型的なものから、「ニワトリ」「イノシシ」「ウマ」などの動物埴輪もある。特に馬は古墳時代に大陸から伝来した家畜なので、日本列島において当時としてはまさに最新の動物でもあったのだ。

角塚古墳の最大の謎は、そこに埋葬された人物は一体誰だったのかということだろう。
胆沢扇状地で誕生した地域の有力者なのか、あるいは別の土地からやってきてこの地を支配した人物なのか。その答えは今後の調査・研究の進展によって明らかになることを期待したいが、角塚古墳からほど近い中半入遺跡(なかはんにゅういせき)からは、大変興味深い古墳時代の集落跡が見つかっている。
この集落からは現在の大阪府の陶邑(すえむら)でつくられた土器や宮城県産の黒曜石(こくようせき)、久慈の琥珀(こはく)やガラス製の玉類、馬の歯など、遠方との交易によってもたらされた品が大量に出土しているのだ。つまり、この地は本州を南北に結ぶ物流拠点だったのである。
そう考えると、角塚古墳に埋葬されているのは、このような物流を一手に支配した敏腕経営者なのかもしれない。

角塚古墳の存在は、胆江地方が様々な時代の境界地域だったことの端緒を示しているようだ。
奈良時代には中央政権と蝦夷社会が衝突を繰り広げた舞台に、平安時代には安倍氏や奥州藤原氏による権勢の拠点となっている。今から150年前の江戸時代までは仙台藩・盛岡藩の藩境になっていた地域だ。

境界という言葉の響きは、“知られざる世界”への好奇心を掻き立ててくれる。
境界という視点で地域を歩けば、新しい魅力が発見できるかもしれない。
胆江地方はそんな潜在性を風土に秘めた「古くて新しい」地域でもあるのだ。

文 野坂晃平(のざかこうへい)
えさし郷土文化館 課長補佐(学芸員)
専門分野/考古学・(地域史)
1976年(S51)盛岡市出身
1999年 (H11) 盛岡大学文学部児童教育学科卒
1999年 (H11) 江刺市教育委員会(埋蔵文化財調査員/非常勤)
2003年 (H15) えさし郷土文化館

 

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