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「南部鉄器」の物語(2)―南部鉄器のターニングポイントー

前章では、「南部鉄器」の二大産地それぞれの起源や略史、特徴を紹介しました。
今回は「南部鉄器」が辿ってきたその道筋をさらに深く探るべく、「南部鉄器」のターニングポイントについて迫っていきたいと思います。
時代ごとのターニングポイントについて触れる前に、岩手の二大産地、盛岡と水沢で鋳造が行われ始めた起源をおさらいしましょう。

「水沢の鋳物」の起源は、およそ950年前の平安時代末期。平泉を中心に東北地方を治めた奥州藤原氏が近江国より、鋳物師を招いたことが起源とされています。一方の「盛岡の鋳物」は、江戸時代初期。茶道を中心とした文化興隆に努めた南部氏により、京の釜師を登用したのが始まりです。両地域は、鋳造に必要な砂鉄や鉄鉱石、川砂、粘土、木炭といった資源が豊富に採れ、鋳造に非常に適した地であったことが、古来より岩手で鋳造が発展した最大の理由でした。

南部鉄器のターニングポイント

鉄薬鑵てつやかん(南部鉄瓶)の誕生| 江戸期
南部鉄瓶 時は江戸時代中期。当時の南部家藩主9代利雄としかつが茶道に非常に関心が高かったこと、また藩内で煎茶が流行していたことを背景に、藩のお抱え鋳物師の一つ小泉家3代仁左衛門が土瓶の代わりとして鉄瓶を考案したのが、「南部鉄瓶」の始まりとされています。しかし、その考案当初より「南部鉄瓶」という名称であったわけではなく、
「鉄薬鑵」→「薬鑵釜」→「手取釜」
そして現在の一般的な名称「鉄瓶」と変遷を遂げたことが確認されています。盛岡で誕生した鉄瓶は、水沢の地でも江戸時代よりすでに製作されていたことが伝えられており、両地域間で何かしらの技術交流や情報交換が行われていたことがうかがい知れます。

|明治の転換期| 明治期

職業の自由化や廃藩置県による藩の庇護からの解消により、南部藩の保護下にあった盛岡、伊達藩の保護下にあった水沢両地域において、鋳物師たちは大きな転換を余儀なくされます。また、原料や動力の変化も鋳造業において大きな転機だったことでしょう。盛岡に比べ、従業員数が多く規模も大きい水沢においては、時代の変化に対応できない鋳造所の閉業が相次いだ一方、勢いを伸ばし生産量を増やす鋳造所も存在しました。衰退を免れた水沢地域の幾つかの鋳造所は、鍋や釜の量産に成功し、明治中期以降には東北一の生産量を誇ったとされています。

|盛岡大火| 明治期

1884年の盛岡大火の際、焼け落ちた工房に残っていた鉄瓶に金気(鉄くささや風味)が出ないことから着想を得て、南部藩お抱え鋳物師の一つである有坂家21代富右衛門が「金気止め(錆止め)」を考案したとされています。およそ900度の高温で焼いた鉄の表面には、酸化鉄という細かい粒子でできた膜が形成されます。この酸化皮膜があることで、錆びの発生を防ぐということです。
現在でも南部鉄瓶の特徴かつ強みである「金気止め(錆止め)」という技法は、幸か不幸か“火事”という災害の裏で誕生したと言われています。

|鉄瓶黄金時代| 大正期
鉄瓶黄金時代 第一次世界大戦期の好景気による鉄瓶の需要の高まりと同時に、鉱山に出稼ぎに出ていた職人達の帰郷、新たな技術の導入(電気モーターの送風装置)により鉄瓶の生産能力が倍増し、鉄瓶黄金時代と呼ばれる大きな発展を遂げました。しかし大正末期から昭和初期にかけての不況とアルミ製品の流行によって、状況は一変。鋳造所の閉業が相次ぐなど、職人たちは非常に苦しい状況に立たされたのでした。
|太平洋戦争| 昭和期

軍需産業の拡大とともに、南部鉄器をはじめとする工芸品の統制、さらに1938年には鉄瓶製造禁止令が発布され、職人達の中には転業を余儀なくされる者が出てきます。一方で、幾つかの鋳造所は軍需工場の下請けとして操業を認められました。鉄資源の使用が軍需産業へと優先され、工芸品の製造は低迷しますが、南部鉄器の伝統技術の保護と継承のため、技術保存者として盛岡では16名、水沢では6名の職人に鉄瓶製造の許可が下ります。
計22名の技術保存者たちは、厳しい条件の中、何百年と続く伝統技術の継承に尽力した、今にも続く「南部鉄器」の歴史において極めて重要な存在だったのです。

|南部鉄器への一本化| 昭和期

1959年、水沢鋳物工業協同組合と盛岡の南部鉄瓶商工業協同組合が共同で「岩手県南部鉄器協同組合連合会」を設立し、それぞれの鉄器の名称を「南部鉄器」に統一します。これによって、異なる変遷を遂げてきた両地域の鉄器が、岩手県を代表する工芸品「南部鉄器」として正式に統一されたのでした。

|全国初「伝統的工芸品」の認定を受ける| 昭和期

1975年、伝統技法である焼型が、通商産業大臣(現:経済産業省)指定の「国の伝統的工芸品」に全国で初めて指定されます。日本はもちろん、海外からも支持を受ける岩手を代表する伝統工芸品「南部鉄器」。工芸品としての価値や技術の継承が必要であると、公式に認められたのです。

 

以上、「南部鉄器」の分岐点とも言える7つの出来事について迫りましたが、私たちが現在手にする「南部鉄器」に成りえるまでの年月や道筋は果てしなく、言葉ではその全容を到底まとめきれないでしょう。記録としては残っていない、数々の物語が「南部鉄器」の歴史を作り上げ、わたしたちに受け継がれているのです。
南部鉄器
かつて、北は岩手・山形から南は佐賀という全国各地で行われていた鋳造業。時代の変化に対応できず、衰退した産地、衰退は免れたものの工業鋳物へと転換した産地がある中で、今なお工芸品や暮らしの道具としての鉄器を作り続けている岩手の鋳造業。何百年という歳月と先人たちの想いが、「南部鉄器」に秘められている事を思うと、鉄器の重みがまた少し異なる“重み”として意味を帯びる、そんな気がするのです。

参考:もりおか歴史文化館「南部鉄器:時代を越えた鐵の美」2016年7月
    水沢鋳物工業組合「共に生き、共に栄えてきた60年」2014年11月

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