料理人に聞く

奥羽山脈のふところに「ふっ」とあるレストラン【開】

岩手と秋田の県境、西和賀。冬は雪が3mになる豪雪地帯に、【開】と言うレストランがあることは知っていた。そこは、俗に言われる限界集落。【開】のある本屋敷というところは現在の住民は4人。

新型コロナウィルスの感染者が出始めた、2020年春。

【開】の鈴木智之シェフが弊社のショップに訪れて、「バーニャカウダーを風鈴を器にして作りたい。うちのレストランに来たお客様に風鈴の美しい音色を聞きながら、風鈴でバーニャカウダーを食べていただきたい。味と共に、音の思い出を持って帰ってほしいんだよね」と言った。
私たちは「何のこと??」と、はじめシェフが話していることが理解できず、シェフ、風鈴は鍋にはならないよ・・・と思いつつ話を聞き続けたところ、「岩手県人が思い浮かべる鉄器のイメージに南部風鈴は強い、風鈴が鍋に使えるとしたら、音と味のふたつから他県のお客様に岩手のイメージを膨らませてもらう事ができるのではないか?」というシェフの想いがそこにあった。

風鈴とバーニャカウダーの器―同じもので作りたい

このお話を受けて、オリジナル風鈴と風鈴形のバーニャカウダーカップ、それのウォーマーの制作が鈴木シェフと共に始まった。西和賀の特産品として、岩手県人が初めに思い出すのは「ワラビ」。西和賀のワラビは粘りが強くたくましい。鈴木シェフにはワラビ畑も見せていただくお約束で風もさわやかな6月末にサンプルのバーニャカウダーポットとウォーマをもって会いに行った。

ここでレストランをする意味は何ですか?

目の前の道には車一台通らず、人里には車で5分、岩手県の中堅都市北上市には車で1時間。そこに【開】はある。

「私はね、ここからもともと山ふたつ超えた湯川温泉の育ち。西和賀とひとくくりにしてしまうと何だけど、違うんだよね。この場所は本屋敷というんだけど、私も名前だけは知っていたけど、二十歳すぎて自分で車で釣りをしに歩くようになってリアルに知ったのね。まず「川」に出会った。南本内川。あまりにも違ったね。もともと自然豊かと言われる湯川温泉で育って20年の私が、世界観、スケール、圧倒的な違いを感じたのがここ。まあそうだな、山歩き、山菜を取りに行ったりする暮らしをしていた私、そういう私だからかな。感じたスケールの違いというのは。ちょっと間違うとすぐ死ぬなっていう激しく、きびしい感じ。圧倒的にきれいだし敬意を感じられる。普通に暮らしていろいろなモノに敬意を感じなければならないのだろうけれど、そういう心を自然に持たせてくれた。湧き上がってくる怖さ、恐怖。恐れは敬うに通じる。恐れは大事な感情だと思う。そこに入って行って、生きて行く。そこから恩恵を受けて暮らしていく。ということを感じた場所だった。」

鈴木シェフのお話しにある「畏敬の念」は、きっと20歳の青年が怖いと感じた中でも、そこで守られていることを自然から受け取ったから出た言葉なのか。美しい、しかし怖い。ここの自然は生活したものでないとわからない怖さと優しさに満ちている。鈴木シェフのこの地域の自然の話しはもう少し続いた。

「昔は、横手盆地 奥羽山脈を超えるルートはいっぱいあったのね。ここは入り口なんだよね。みんなに見てほしいのはここから先。」と、レストランの前の道の山の方を指さした。
山を越え、右を行くと東成瀬(村)に通じ昔から交流のある集落、左を行くと夏油に続く。
「昔、通っていた道は、たった100年の間にみんな無くなってしまうような勢いじゃないですか?」
「それまでは ここも200人住んでいたところだった(今は4人)んですよ。鉱山の閉山と一緒にみんないなくなってしまったんだよね。」
「ここは平らな場所で水は豊富なんです。かつてここの川には秋はサケ、春はマスが昇ってきていたしね。縄文土器が出ているのも豊かな土地だったからなんだよね。今はダムができてサケはかえってこなくなった。それは、しようがないけれど、なくしてしまったものも大事に繋いでいかなければならない。」

シェフの前職について伺った。

2年間 横手(秋田県横手市)のレストランで働き、次の仕事を考えていた矢先に、湯川温泉に新設の旅館ができることになり、そこから声をかけられた。もともと、両親が同じ地域で別に小さな旅館を営んでいたので、ある意味ライバル旅館への転職となったが、決めた。その旅館では、7年間料理長をさせてもらったが、0ベースの自分を育ててもらった。と感謝している。「最初は苦笑いしていたお客様もいたかもしれない。」と鈴木シェフはそれこそ苦笑いをした。「そんな自分を旅館側もあたたかく見守ってくれて、少し少しの積み重ねで、自分自身の経験で自信ができてきた。間違っていないな。と思いながら、進めてきた気がする。この山奥で、一泊4万円程。この金額を頂く責任。これとの葛藤の7年間だったな。」

鈴木シェフがこの旅館に興味を持った理由の一つが面白い。彼は雪合戦大会でフィンランドに2回行った経験があり、北欧に興味を持っていたのだ。(西和賀は雪合戦でも大いに盛り上がる地区で、北日本雪合戦大会が開かれる)
この新設の旅館は北欧を参考にした旅館。調理場を一から整えていくことにも面白さを感じた。

「最後まで一緒にいるだろうと皆さんは思っていたのではと思いますが、独立することにしました。」

名の通った旅館をやめて「ここ」を選んだ理由は、弟の言葉と父の想い

鈴木シェフが30歳の頃、弟さんと一緒に呑んでいた時のこと。

「俺は本当は、本屋敷でなんかやりたいんだ。と言った時に、弟が、じゃやればいいじゃん。やりたいんだったらやればいいじゃん。とあっさりと言ったんだよね。だけど 実家の旅館もあるべし、親もいるべし。と悶々として、なんのアクションも起こせなかったでも、弟の話しは衝撃だったからノートに殴り書きしたんだよね。【弟が本屋敷に手を出してやれって言った】って。」

「その後、親父が山でケガをしたんだよね。その時、この父もいづれの日か死ぬんだな。とふっと思った。そして、どういう風に俺が生きたら、この人は面白いのかな?名の通った旅館の料理長でいるよりも、もがいてもいいから俺は俺で俺の為にもがいて生きている姿のほうがきっといいんじゃないかな。

父には、いつまで勤め人をやっているのか?とよく言われていた。
息子が同じ温泉街で他の旅館の料理長をしていることにも不満を持っていたわけで、親父としては面白いわけないじゃないですか。
ケガしたおやじを見た時に、その言葉を思い出したんだよね。
親父が死んだ時に、”息子は、山人(前職の旅館)の鈴木料理長だ”と言われるんだな。と思っていた時に、実家で、殴り書きしたノートをたまたま見てしまった‥‥」

決心の時は、来るべくして来た。

「私の心の中で、全く色あせていなかった 本屋敷で一生に一回なんかしてみたいな。という想い!それは47か48歳だったけれど、ノートに殴り書きをした時から15年以上だったけれどもあそこでなんかしてみたい 町じゃなくて!これがね 50歳ちょっと手前だったけど。あと10年そのままで60歳になったら高級旅館の料理長の鈴木がいるわけ。」

自問自答のようにシェフは話した。
「そこから、準備をして何かを立上げてやる男か?俺が?そんな準備をしてやるような男じゃない。そんなことならとっくにやっている」

男わらし一回生まれてな、やってみたいなと思ったことをね。やる。

「80になった時にやってみればどうだったんだべな。と80の俺が思ったら、何のために生きてきたのか非常に寂しく死んでいく部分きっとあるはずだ。やらないでしまった後悔は取り返せない、それはしてはいけない。そこから1カ月もしないで辞表を出したんだよね。何が起きた!とみんなからは言われたけれどね。」

3時半になったら明るいぞ。行く気なら行けるでしょ。

レストランを本屋敷で開く。と決めて、そして、ここの場所は、どうして見つけたのでしょう?

「旅館で料理する山菜が少なくなった時に、ワラビ農家もしている小田島さんという方の家の裏山に行って、朝6時とかにワラビなどをとらせてもらっていたのね。小田島さんには「山に行っていたか?ワラビやゼンマイ取っているか?」と聞かれた時に、「今つとめ人で 朝早くから夜遅くまで働いていて、なかなか山に行く暇がない」と答えたんだよね。その時彼は、「何言ってるって、今なら3時半っていえば明るいからな。6時半までだったら3時間あるじゃ。1時間入って1時間探し1時間で帰ってくるとしたらどんだけのものが取れるんだよぉ」小田島さん自身が営林署勤めの時にそのような生活を送っていた人だった。それで子供を育てた人。お日様と一緒の生活をしている人。いや。確かに。勤めている。といいわけをしているだけだったな。行く気ならば行けるでしょ。そう気が付いて、それから山に入り始めた。時間見つけて山に入ることをもう一度はじめた。」

「小田島さんの一言は大きい。3時半だったら明るいぞ。と言われた言葉は俺の人生を変えた。時間の概念、時間の流れが違うんですね。明るくなるころに目が覚めますね。」

その小田島さんに紹介をしてもらって、この家を借り、リニューアルを始めた鈴木シェフ。
「20歳の頃は、この辺りから山に入っていたのね、その当時このレストランの建物は屋根にユリが咲いていたな。茅葺で。小田島さんが、ここなら貸してもらえる可能性があるからと話を通してくれたんだよね。。もし私が自分で声を掛けたとしたら、この地域は皆いなくなって、あと2件になって何じょすんべ(どうしたらいいだろう)と言っているときに、縁もゆかりのないこんな男が来てレストランを開きたいなんて言って、家を貸してくれ。と言っても、「何事だ!」とおおごとになる訳よ。ここの大家さんもお母さんがなくなって、この家をどうしようかと考えている時で、自分の代で整理を考えていた。そんなところにこの話を聞いて、貸すのはダメだ。けでやっから(あげるから)。でもやめたから返すと言われるのは困る。最後壊すところまで 建屋を持った責任はそこまであるのだから、そこまでやるという責任があるなら、ける(あげる)。そのうち土もける(あげる)から。と言われてね。」

そうこうして、この土地の一軒家で【開】はオープンした。鈴木シェフ48歳。

【開】という名前は、開高健さんから頂いたと言う。20歳ごろから開高健さんが好きで、開高さんが書いた字を使えるのであれば開という名前にしたかった。その想いは強く、茅ケ崎の開高記念館に問合せをして、快諾をして【開】の文字を頂いた。

開高健さんの書いた【開】の字をもらって。

「【開】と聞くと、ここを開くという意味で?と皆さんおっしゃるけどね、違うんだよ。」鈴木シェフは、「ここは元々、開けているんだよ。と言う。縄文時代からね。あの山のふもとに縄文土器が出ているんですよ、集落がもともとあったんだよね。鉱山の時代にブルドーザーを掛けてがちゃがちゃになったらしいけどね。」

開高さんの家に哲学者の小道っているのがあって、夜遅く帰った時に奥さんに合わずに自分の部屋に入れる道をそんな名前にしたらしい。これにも鈴木シェフはあこがれて、このレストランの周りにも小道を作った。
今年の5月17日に本当は開高記念館の関係者とある集まりがあって、次の日のランチをこのレストランでパーティということが企画されていたのに、コロナ禍で中止に。いつかまた機会があるよ。って言って。

口コミで広がって

ここの存在を知らせるのはどうやって?
「前職の高級旅館山人を辞めてパン屋を始めんだけど、岩手県のプレスが来てくれて、実はこんなことをやるからね。と伝えたら、いろいろと取材が入ってくれてね。県内はそういう感じて口コミが広がった。最初は私のコミュニティでしか、お客様が来ないんだよね。そこで半年支えていただいた。

スタートは地元の人からだったね。今地元の人は、お客様を連れてきてくれる。ここでランチをしていては、“めし”は食っていけないので、徐々にディナーをしっかりと始めたけど、町のお蕎麦屋さんのつもりでここに来られてもちょっと対応に困るね。お客様がいらした時に、そのお客様が【開】を広げてくれる。そんなしっかりとした仕事をすれば自分で広める必要はないのよ。そこを一生懸命するべきでしょ。と言い聞かせている。俺は料理の写真などSNSに上げない。眼で食ってしまうもんな。半分味まで見えてしまう。 メニューとしつらえとワクワクしなくなっちゃうと思うんだよね。」

オリジナルのウォーマ

「あーもう! いやー。いい素敵」ウォーマのサンプルに鈴木シェフはこの一言。


※この後ウォーマはより良いものを求めて再度デザインをしなおし中。

「保温はろうそくで料理は固形燃料で、料理の幅が広がりますね。商品力は3倍ですね。遊びごころも詰まってます。そうすれば・・・・アイデアドンドン!風鈴のアイデアがここまで広がるとは。バーニャカウダーのポットをまず作りたかった。南部鉄器でね。

前は、瀬戸物を使っていたんだけど瀬戸物は瀬戸物で焦げるし割れるのよ。洗い場で、熱くなっている瀬戸物に水を掛けたりする人がいるのよ。ついつい忘れてしまって、底にヒビがはいったりする。鉄器は、厚さがあるから熱を柔らかく伝えるんじゃないかな?山人を辞める時からOIGENさんを知っていました。行きたいなと思っていたんだけど水沢は遠いし(笑い)」

「自分の想いをこの土地もそうですが、形にして行くのに、時間じゃなくてタイミングだったり、ゆったりと落ちてくるタイミングに出会いがあって、おもしろいですよね。」

今回のOIGENとの出会いはコロナだったから。

「2年間ドタバタしながら営業をしてきたし、来た人を何とか満足させたい。そこしか見えてなかった時間を過ごして、この新型コロナウィルスが襲ってきた。大変だけれど、でも私はプラスに考えている。なぜなら、客観的にいろんなものを考える時間ができたからね。」鈴木シェフは何度もそう言う。

「5月中は、店は閉めて、ワラビをとって販売していたね。私がここに来たのは、この場所が素敵な土地になっていくのが最終目標で、ここにいっぱい人が来てレストランだけじゃなくて、このデッキにお弁当を持ってきてくれて食べている人たちが集まってくる、この周りも対岸が見えるように見晴らしよくしてね。そんなことをきちっとやって。それをしに(自分はここに)来たんだったな そうそう。人は来るようになりましたよ(笑い)。

このデッキの周りの杉をやっと3本倒したんだけれど、この杉が全部なくなったら全く違う風景が見えてくるはず。この先の渓谷が、なかなかない素晴らしいロケーションでね。整備したいんだけど役場に言っても時間も予算もないと言われるので自分でやらないと。。。登山道や散策路も お客様が来る道路としてきれいにしていきたい。」
鈴木シェフの夢は、自然の中でお客様がゆっくりできる時間を作ることなのかもしれない。自然と共に育ったシェフが伝えることは、料理の味だけではない。


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