風土よみもの

鉄鍋の登場

日本での煮沸(しゃふつ)調理法は縄文時代から続く伝統レシピである。
 縄文時代の煮沸具といえば、もちろん“縄文土器”であるが、弥生時代以降に鋳造技術を手に入れてからは、次第にその主役は鉄製の鍋釜へと移り変わっていった。もちろん、現代の煮沸具における鍋釜の存在はもはや不動の地位である。

 遺跡から出土する煮沸具には、鉄製・土製・石製などバリエーションが豊富である。
水沢玉(たま)貫(ぬき)遺跡から出土した鉄鍋は、吊り下げるための耳が口(こう)縁部(えんぶ)の内側に取り付けられているのが大きな特徴であることから「内耳鉄鍋」と呼ばれる。耳は向かい合うように2箇所に付く縦耳となっている。
 この内耳鉄鍋は、カマドではなく炉に吊るされて使用された。耳が鍋の内側に付くのは、木や草のツルを用いていたためであろう。外側だとツルが炉火で燃えてしまうからだ。

 内耳の鍋は東海や関東甲信地方から多く出土しているが、そのほとんどが“土製”である。一方で内耳鉄鍋は北海道の近世の遺跡に多い。東北地方北部では、平泉、水沢、陸前高田、一戸、横手などから良好な内耳鉄鍋が出土しており、年代も11~12世紀頃のものと推定されていることから、その歴史が平安時代後期にまでさかのぼることを示している。ただし出土例は極めて少なく、この頃に鉄鍋が一般の集落にまで広く普及していたとは考えにくい。

 鋳鉄鋳物が普遍的に生産されるようになったのは、鎌倉時代以降の中世となってからであろう。“鋳物師”と呼ばれる鋳造工人たちが本格的に登場するのもその頃からである。彼らは次第に鋳物砂の産地周辺に工房を構え、それが生産拠点として都市部の周縁に位置する“鋳物の村”として発達していったものと考えられる。
 田茂山村(現奥州市羽田町)もそうした経緯で、周辺の町や村々に鍋釜や仏具を供給する鋳鉄鋳物の生産地へと発展を遂げたのであろう。

文 野坂晃平(のざかこうへい)
えさし郷土文化館 課長補佐(学芸員)
専門分野/考古学・(地域史)
1976年(S51)盛岡市出身
1999年 (H11) 盛岡大学文学部児童教育学科卒
1999年 (H11) 江刺市教育委員会(埋蔵文化財調査員/非常勤)
2003年 (H15) えさし郷土文化館

 

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