権現頭に鹿角を付して馬毛を垂らした一見恐ろしげな表情。腰丈にもおよぶ幕垂をおろして背にはササラを背負い、腰前に抱えた太鼓を自ら打ちながら唄い踊る。
胆江地方に伝えられるシシ踊りの様相である。
その異形の姿に古来より人々は神仏と通じ合い、畏怖の念を寄せてきた。
水沢出身で美術評論家・民俗学者の森口多里(1892~1984)は「シシは威厳ある聖なる精霊として、祖霊の訪れてくる盆の日に山のどこからともなく里に出てきて、太鼓と唄と踊りでホトケのために供養し、またホトケの往来を邪魔するものを遠ざける『神秘の来訪者』であった。また、一方では死を悼んで彼岸往生を受け止める山の神であるともされる」と述べている。
岩手県地方のシシ踊りは一般に「太鼓踊り系」と「幕踊り系」とに大別される。
主に太鼓踊り系は宮城県北部から岩手県南部の旧仙台藩領および盛岡以南の旧盛岡藩領の一部に分布しており、その踊りは八頭立(シシに扮した8人の踊手)によって演じられることから、宮城県北では「八(や)つ鹿(しか)踊り」とも称され、胆江地方のシシ踊りはこれに分類される。また、伝播経路などによって、行山(ぎょうざん)流、金津(かなつ)流、春日(かすが)流などの流派があり、表記も「鹿踊」のほか「獅子躍」「鹿躍」「獅子踊」「鹿子踊」の文字が用いられている。
それぞれの流派や踊組によって、供養起源、模倣起源、春日明神縁因など様々な由来が伝えられるほか、「鹿」と「獅子」の名乗りの違いはあるものの、「シシ」は神仏を守護する獅子であり、神の使いの鹿であるので、神事・仏事を問わず地域の各種儀礼や年中行事に欠かせない芸能であることに違いはない。
いわば、神仏の化身である権現(ごんげん)をまとって舞うシシ踊りの姿に、人々は神仏の存在を身近に感取してきたのである。それ故に踊組は厳格な掟(おきて)を定めながら今日まで芸能の継承を続けてきたのである。
シシ踊りの流派は行山流が最も多く、次いで金津流、春日流となるが、胆江地方では行山流および行山系諸派(上山流・行上流・仰山流・伊藤流など)と金津流が主流で、20団体余もの踊組があり、その半数以上となる15団体が江刺地方に分布している。
江刺地方のシシ踊りは行山流の久田(きゅうでん)鹿踊が最古で、慶長4年(1599)に仙台城下八幡堂(はちまんどう)踊大将、佐藤長兵衛から江刺郡野手(のて)崎(さき)村の今野吉郎兵衛に伝授されたのが創始とされる。装束・芸態ともに他の踊組と比べ独特であり、仙台八幡堂系踊から行山流踊に引き継ぐ、中間的な形態を伝える特徴があるとされている。一方で、今日一般にみる行山流踊は本吉郡水戸邊(みとべ)村(現南三陸町志津川)の伊藤判内(ばんない)持(もち)遠(とお)によって創始されたものとされ、この系統は享保年中(1716~35)に東磐井郡大原村(現一関市大東町大原)の山口屋敷を中心に、江刺・東磐井・気仙地方へと伝えられたことから「行山流山口派」とも称されている。
金津流は仙台藩士犬飼(いぬかい)家に伝わるもので、その踊りは宮城郡国分(こくぶ)松森(まつもり)村(現仙台市泉区)を経て、安永8年(1779)に江刺郡石(いし)関(ぜき)村の肝入(きもいり)小原吉郎治に伝えられたことに端を開く。のちに小原伊右衛門により文政11年(1828)に栗生(くりゅう)沢(ざわ)村へと伝承され、以後は栗生沢の梁川(やながわ)獅子躍が金津流伝播の中核となって江刺郡伊手(いで)・軽石(かるいし)・和賀郡丹内・気仙郡浦浜・志田郡松山などへと踊りを伝えている。
藩政時代、仙台藩領の北辺に位置した胆江地方には、仙台周辺に端を発した多種多様な芸能が伝えられ、地域内に留められた。いわば民俗芸能の終着駅としての役割を果たしてきた地域ともいえる。その中において、シシ踊りも各村落に定着し、地域の習俗や信仰といった人々の営みを支えてきたのである。
森口が述べた通り、現在でも盆の時期になると、そこかしこから太鼓を打ち鳴らし、唄声を上げるシシ踊りの姿を目にすることができる。また、江刺地方では15団体による流派を超えた組踊「百鹿大群舞」が毎年、送り盆行事として8月16日に披露される。
こうした民俗芸能の様相はまさに祖霊や物故者と交流する存在であり、シシ踊りは地域文化における祈りの使徒たちなのである。
↑ 百鹿大群舞
文 野坂晃平(のざかこうへい)
えさし郷土文化館 課長補佐(学芸員)
専門分野/考古学・(地域史)
1976年(S51)盛岡市出身
1999年 (H11) 盛岡大学文学部児童教育学科卒
1999年 (H11) 江刺市教育委員会(埋蔵文化財調査員/非常勤)
2003年 (H15) えさし郷土文化館