上の写真で左にいる鉄瓶の蓋を頭に載せて喜んでいる少年が、約80年前の及源鋳造の現会長及川源悦郎です。
その会長が、こんなに小さかった頃の暮らしを聞いてみました。80年前のお話です。
「食事は鉄羽釜で炊いたご飯と、鉄鍋で似たお煮しめ、鉄鍋で作ったお汁。時には煮魚もあったな…。鉄羽釜のご飯は、鉄竈で炊いていた。」
うん?
「そう。当時は竈も鋳物で作ったんだ」
どんなものなの?
源悦郎会長の記憶をたどって描いてみたのがこれ。
鉄羽釜の大きさは30センチほどあったというから、鉄竈はかなりの大きさ。そして、薪が入る部分は穴になっていたそう。あっさり「必要だったから作った」と言われました。
現在この大きさで、この形のものを作ろうとしたら、時間がたてば固まる化学的な砂を使って作ると思うけれど、100年も前だとどうしたの?と。「当時、たぶん削り中子で作ったんだろうね~」とも。※けずりなかご
削り中子!鋳物屋で生まれ育った私も、聞いたことはあっても見たことの無い技法です…。昔の人は、大がかりなクレーンや金枠などがなくても、必要だから当たり前の様に作ったんですね。まさしく生活に寄り添ったものづくりです。
「お汁は木蓋がついた昔ながらの鍋で、囲炉裏でやってたね。」会長の住んでいた家は、勝手口を入ると長い土間があって、そこに鉄竈があり、土間の横に70センチくらいの高さで板の間が広がって、そしてその板の間に囲炉裏が切ってあったのだとか。
食事の時間以外は、常に台師釜と呼ばれている大き目の釜が常に据えられていて、お湯をたたえていたらしい。東北地方は寒い。お湯は必需だったのです。
台師釜たち:時に雑釜(ぞうかま)とも呼んでいたとか。なんでもこれ一つで大丈夫という意味での「雑」とは、いかにも道具を作って来たこの産地らしい。
「鉄鍋は、藁(わら)を丸めて洗ったな。今でいう、束子。毎日使うものだから、少し作り置きがあったという。
会長が結婚したころには、既に鉄の竈はなく、レンガの竈に変わっていて、嫁に来た会長夫人には、鉄の竈の記憶はないと言います。しかし、藁を丸めた束子は覚えているとか。
自分たちの生活の道具を自分たちで作り、それを商品として使う人に販売する。まさしく、リアルでつながり、作ることも使うことも両者にとってリアリティのある時代だったのです。