先日台湾に行く機会がありました。お茶の国というイメージのある台湾ですが、それは私が思っていたものとは少し違ってきているようでした。台北で働く20代、30代の若い世代と話をする機会があったので、聞いてみたのです。
「お茶って飲むの?」
「はい。飲みますよ。」
「茶葉から淹れて?」
「父は今も急須と湯呑のセットを持っていて、近所の人を招いてお茶をふるまったりしますが、僕たち世代は町中のティースタンドで買って飲みます。手軽なので。」
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その時脳裏に浮かんだのは、私にとっては当たり前の日常の一コマでした。
お茶を淹れるために鉄瓶を取り出し湯を沸かす。しばらくすると、湯気が見えたり音も聞こえてきます。急須に茶葉を入れ湯をそそぎ、湯呑に注ぐと良い香りが伝わります。今度は、鉄瓶のお湯を容器に零し、蓋を取って湯気も逃して中を覗く。鉄瓶を自分が丁寧に使っていることにこっそり満足したりして。
幼いころ家族との食事の後に飲んだお茶のことをふっと思い出したりします。
日本でも今は、お茶の類は、ペットボトルで売られているのが当たり前になっています。早くて、便利で、簡単で、水の代わりに、のどが乾いたら飲むだけの存在なのでしょうか。
何百年も前から家庭で続いてきた、お茶碗で飲む少し渋いお茶は、あっという間に、家庭の
情景からはなくなりつつあることを、私は少しだけ残念に思います。急須からそれぞれの湯呑にお茶を分け合う風習は、家庭から消えないで欲しいと思っています。
ものを通して感じさせてくれる先人の教えや愛情や文化や風習。手間をかけることで感じる、匂いや音や重さや温度等々。五感に感じる大事な“何か”が、日々の暮らしの中にたしかに残っていて欲しいと思うのです。