4月20日の岩手日報に「大地踏み疫病退散」として、北上鬼剣舞連合会などが19日に新型コロナウィルス感染症の拡大を受けた「疫病退散の舞」を行った。という記事がありました。踊り手が念仏に合わせて大地を踏みしめ感染症の退散を祈願。
この記事を受けて、えさし郷土文化館の野坂先生に「念仏踊り・念仏剣舞」についての成り立ちを今だからこそ!と執筆をお願いいたしました。
(写真提供:鈴木雄二)
念仏や和讃の唱文を称え、鉦、太鼓などで囃しながら踊る民俗芸能は一般に念仏踊りと称されている。
これらは主に盆や仏事に祖霊や物故者の供養のために踊られるものだが、小唄を伴うなどの風流化によって多様に発展しており、全国的にも数多くの風流踊りが現存している。
その起源は諸説が伝わっており、菅原道真が9世紀に讃岐国司を務めた際に行った「雨乞いの踊り」が、のちに法然上人がこの踊りに「念仏」を唱和させて念仏踊りに発展させた、あるいは、空也上人が布教活動に念仏踊りを用い、鎌倉時代に入って一遍上人によって大衆化が図られ伝播されたものともいわれている。いずれ様々な素因が、後世の風流化によって多様な念仏踊りを現出したことには間違いない。
胆江地方における念仏踊りの伝播者として著名なのは、一遍上人を宗祖とする時宗信徒らによる布教活動であろう。一遍上人が江刺郡に行脚したのは弘安3年(1280)の9月中旬頃で、祖父河野通信の菩提を目的としたものであった。
河野通信は源頼朝の平家追討に河野水軍を率い大功があったが、のちに承久の乱(1221年)において後鳥羽上皇に組みした廉で江刺郡に配流されてこの地で没した。その墓所については旧江刺郡下門岡(現北上市稲瀬町)に比定されており、国宝『一遍聖絵』には一遍上人をはじめ20余人の僧が祖父通信の墳墓を囲んで念仏を修する姿が描かれている。
このように念仏踊りは、時代を経ながら民衆化し芸能化していったと考えられ、これらは全国的にも地域性を示す民俗芸能として主に祖霊供養のための盆行事などで供されている。
同様に念仏剣舞もまた風流の念仏踊りの一形態として伝承されてきたものが、各地に独自の芸能として根付いて発展を遂げてきたものである。
胆江地方の念仏剣舞は廃絶を含めると、概ね近世までの旧村単位で分布していたとみられ、縁起をほぼ同じくする伝本などが各村落に伝えられている。
それによると、念仏剣舞のはじまりは大同3年(808)、権大僧都法印善行院忠慶と号する僧が羽黒山に籠もって仏道修行中、訪れた3人の旅僧から「念仏剣舞こそ悪魔退散、如意繁栄」を図る菩提であると伝授され、忠慶は自ら伝本を記してこの芸能を広めたとされる。忠慶と旅僧との説話の中には問答場面もあり、旅僧が「大明神本地 (仏の姿)如何」と問うと、忠慶は「金剛界の大日 (大日如来)である」と答えている。そのことから忠慶は山岳信仰を通じて仏道修行に入った密教僧あるいは修験者であろう。
この縁起は、江刺郡の各村落をはじめ、胆沢郡の南下幅、和賀郡の岩崎の伝承にも広く及んでいることが知られている。
演目についても、先ず踊りの第1に「神前而再拝踊」、第2に「仏前而礼拝踊」、第3に「御神楽入踊」と定めており、これらの要素は修験系神楽の式三番の「翁」や「御神楽」の舞との共通性があり、当初の念仏剣舞の形態はこの3種の芸能の組み合わせによるものであった可能性が推測される。
次第に念仏剣舞としての演出方法が進展したことにより演目は定形化され、「神前而再拝踊」「仏前而礼拝踊」は「翁」の祝祷舞に替えて実際の踊りの場における儀礼的役割を担うようになったものとみられる。また、「御神楽入踊」はスボコ(主坊子)といわれる踊り手が「天下泰平」と記した軍配を持って軽快に踊る「御神楽入踊」として留めており、その原形は修験系神楽の式三番で踊られる「三番さるごう(猿楽/申楽)」にあるかと想定される。加えて「早念仏刎込入踊」、「片入踊」、「遠念仏練入踊」、「太刀入踊」に狂いの踊りを合わせて形態を整え、今日に見る念仏剣舞の芸態を形成し確立したものであろう。
「念仏踊り」の本質は来世を信じ、阿弥陀如来の慈光によって極楽浄土に往生することを願い、また、死者の鎮魂供養を目的とするものである。それに悪魔退散による当所安全や五穀豊穣を祈願し安楽浄土に道を開く修験道思想による現世利益的な目的も加わり、密教特有の五大明王(不動明王・大威徳夜叉明王・降三世夜叉明王・軍荼利夜叉明王・金剛夜叉明王)を象徴する夜叉面をつけ、如来の教えを奉じて煩悩を砕破し、厄災を除き、怨賊を降伏させる剣を振るって踊る「剣舞」として「念仏剣舞」が創出されたものと考えられている。したがって、伝本に登場する善行院忠慶なる人物は、少なくとも念仏剣舞の一流式としての創出への関与を示唆しているものと考えられる。
なお、「剣舞」の語源は、修験者が呪術に際して大地を踏みしめる独特の歩行法「反閉(へんばい)」が転訛したものともいわれており、そのことからも剣舞は幾つもの祈りが具現化された民俗芸能であるといえる。
花泉(現一関市)の上油田大念仏剣舞では上油田村大隠寺の住僧、権大僧都法印忠慶が鎮守鬼渡大明神に籠り、一千日の行を勤行中に出現した3人の僧によって大念仏の伝授を受けたことを創始の由来としている。この大隠寺は近世まで実在し、住僧であった忠慶は慶安元年(1648)、鬼渡大明神で千日行を修し、元禄元年(1688)には出羽の羽黒山寂光寺の直末として補任されて寺号「善行院」を拝領したとされている。また、鬼渡大明神(現美渡神社)は坂上田村麻呂が大同3年(808)に社殿を創建したとの縁起を伝えており、来歴には年代的な隔たりがあるものの、概ね大穏寺(善行院)周辺の縁起を複合的に編纂して念仏剣舞の由来が構成されているとも考えられる。いずれにせよ、こうした起源や縁起説が芸能の伝承意義を権威づけるとともに、その本質の維持と継承者の資質や気風を今日まで保ってきたのであろう。
江刺郡の念仏剣舞は伊手村の渡部甚四郎が起点となり伝播に深く関わっていることが知られる。この渡部家は歴代当主が甚四郎を襲名していたとされ、権大僧都法印善行院忠慶から伝授されたとする伝本は現在も当家に保管されている。また、和賀地方における鬼剣舞の先駆的存在である岩崎鬼剣舞との接点が深い南下幅念仏剣舞も渡部甚四郎による伝授であることから、胆江地方における念仏剣舞の伝播に果たした渡部家の役割は大きく興味深い。
一方の和賀地方では念仏剣舞が威嚇的な異形の面を付け、勇壮に踊る姿から明治以降に「鬼剣舞」と呼称されるようになり、今や剣舞の代名詞ともいえる存在となっている。
(写真提供:鈴木雄二)
岩崎鬼剣舞を元祖に現在の北上市を中心に活動する各鬼剣舞の踊組も地面を踏みつけて悪霊を払い、鎮魂を行なう呪術的な要素と、念仏を唱え衆生を救うという信仰においては、念仏剣舞の系統を踏襲しているが、「鬼は仏の化身」とする力強い趣に伍する雄強な舞は人々を魅了し続けている。
こうして岩手県南で醸成された剣舞は、威厳と風格を保ちながら躍動を続けている。
(写真提供:鈴木雄二)
文 野坂晃平(のざかこうへい)
えさし郷土文化館 課長補佐(学芸員)
専門分野/考古学・(地域史)
1976年(S51)盛岡市出身
1999年 (H11) 盛岡大学文学部児童教育学科卒
1999年 (H11) 江刺市教育委員会(埋蔵文化財調査員/非常勤)
2003年 (H15) えさし郷土文化館