金属造型家として50年以上のキャリアを持つ廣瀨愼さん。〈クックトップシリーズ〉をはじめとしたOIGENを代表する数々の鉄器をデザインしてきました。廣瀨さんはユニークな遊びごころ溢れる造型感覚で南部鉄器の世界に新たな息吹をもたらすと同時に、OIGENらしい南部鉄器「OIGENのカタチ」を作り続けてきました。
今回はそんな廣瀨さんに、これまでの金属造型家としての歩みや、デザインに対する考え方などを、ユーモアを交えた語り口で話していただきました。
後篇では、廣瀨さんのデザイン観が構築されることとなった恩師・馬場忠寛との師弟関係や、廣瀨さんがロングセラー商品を生み出せる秘訣についてうかがいました。
廣瀨愼さん 来歴
1941年東京都生まれ、23歳まで千葉県市川市で過ごす。
1964年 23歳 南部鉄器に出会う。盛岡の南部鉄瓶工房で修業を始める。
1966年 25歳 〈ひらめ皿〉で通産大臣賞受賞
1967年 26歳 恩師・馬場先生から指導を受ける。
1972年 31歳 家族と一緒に岩手に帰ってくる。及源鋳造と出会う。
1975年 34歳 六つアラレすきやき鍋でグッドデザイン・ロングデザイン賞受賞
1995年 54歳 国井喜太郎産業工芸賞受賞(産地鋳物工芸の発展に貢献したことへの表彰)
2012年 71歳 社団法人日本クラフトデザイン協会名誉会員(JCDA)
恩師から学んだ、デザインの本質
盛岡での修行から3年くらい経ったころかな。以前から親交のあった馬場先生※とお酒を飲みに行くことがあって。「廣瀨、東京に戻ってきて俺のところでデザインの勉強をしないか?」と誘ってくれてね。僕は東京に帰ることに決めたんだ。
馬場先生は、最初は「俺のところにおいでよ」って優しく誘ってくれたわけだけど、行ってみたら全然違ったんだ!朝から晩までこき使われちゃったよ!朝は7時半から夜は9時、10時まで働かされて。あとは何を作ってみても「そんなデザインじゃダメだ!」って言われてね。しまいには「そんなデザインしてるようならこのシャベルで穴掘って死ね!」なんて。ひどいでしょ(笑)
お給料も少なかったから、アルバイトでもできればよかったんだけど、忙しくてそれどころじゃなかったんだよ。
そんなときに信子さん※※と出会って。いやあ、助かった!信子さんがしっかり稼いでくれたからね!それでちゃんと生活ができるようになったよ。なんか売れない芸人みたいでしょ?(笑)
馬場先生の事務所での忘年会の様子。信子さんもお目付け役(?)として参加。(真ん中が廣瀨さん、左が信子さん)
けどね、馬場さんからはほんとに大事なことを教わったと思ってるんだ。この道で仕事をしていくベースになっていくようなものかな。
とにかく馬場先生のところで働き始めたころは「ものをたくさん見る」ということから始めたんだ。鉄に限らず、ガラスでも木工でも、この世に存在する立体物をすべて見る。そのくらいの勢いだよね。
ものを見て自分が何を感じ取るのか。それを通じて美しい造型とはなにかを学んでいったんだ。
あとは、デザインのやり方、考え方。これも馬場先生から叩き込んでもらったんだ。造型の基本は丸と三角と四角。この世の中のものはすべてこの3つの組み合わせでできている。そういう根本のことを学ばせてもらったんだ。
ずっと続けていることなんだけど、僕は粘土をヘラで足しては削り、足しては削り……それを繰り返して形を作っていくんだ。
大体いまデザインというと、曲線をだすのに何ミリのアールだ、といってパソコンを使って図面を書いていくわけだけど。でも、例えば僕の手の形を作りたいとして、この曲線をどうやって表現するの?何ミリのアールと何ミリのアールのその間の部分はどうも表現しようがないじゃない。手間はかかるけど粘土を使って形を作りだしていくのが立体造形の基本だと思うんだよね。
スケッチを描くときもそうだよね。基本的にはフリーハンドで、定規に頼ったりはしないんだ。あんまり一部の細かいところばっかりみちゃうと、全体がどうまとまってくるかが見えなくなっちゃうからね。
そして、ものの特徴をちゃんと捉えること。これも馬場先生のもとでしつこく教えられたことなんだ。南部鉄器は鉄であり鋳物なんだ。だから、まずは鋳造ならではの形ということを考えてあげる。例えば、瓶敷を作るとしたら、平面的なデザインっていうんだと、金属をプレスしてもできちゃうんじゃないかと思うんだよね。僕だったらもっと立体感のある、「鋳鉄じゃなきゃできないよね」っていう形を作りたいんだ。〈瓶敷 波〉なんかは実に鋳鉄らしいなあと感じるよ。
廣瀨さんが描いた鉄鍋のスケッチ
家族、生活、デザイン ロングセラーの秘訣
ロングセラーになるっていうのは、僕はあまり流行っていうのを意識して作っていないっていうことが理由としてあるんじゃないかなあ。ものをつくるときは、まず、「生活のなかで何がほしいか」ということを考えているんだ。
例えば〈クックトップ〉をデザインした頃っていうのは、子どもたちが生まれてこれから大きくなっていくというときでね。家族でひとつの鍋をつつき合いながら団欒している。イメージしたのは自分の家庭ではあるんだけど、やっぱり同じように育ちざかりの子どもを持っている人たちにはこの感じがわかってもらえると思うんだよ。
子どもが巣立ってからは、信子さんとの夫婦ふたり暮らしになるでしょ。そうなるとふたりでも食卓が愉しくなる鍋がほしいなあと思って。〈ちょこっと鍋〉は夫婦ふたりでも使いやすくて一年中使えるでしょ。あとは世の中の旦那さんも料理するようになってくれないかな、っていう想いもあったんだ。
あとは、「おやじの鉄板焼き」(旧商品名、現在は〈ピアット〉)。形の美しさを追求した最高傑作!いいかたちしてるだろお?これは10年くらい前かな、うちに薪ストーブを入れたんだけど。それでこの薪ストーブのなかでピザが焼きたいなって思ってね。薪ストーブの中に五徳を置いて、この「おやじ」にピザを乗っけて、3分もあれば焼けちゃうんだから!
やっぱり、自分の生活の中で使いたいものをデザインするっていうのは愉しいし、そんな気持ちでデザインしたものっていうのは、どんな時代であっても共感してくれる人がじゃないかと思うんだよ。
廣瀨さん宅の薪ストーブ。鉄製の薪ストーブにはいつも鉄器が一緒に
鋳物との出会い、修業時代のこと、デザインへの考え方。どの話からも廣瀨さんの南部鉄器への深い愛情と果てることのない好奇心が垣間見えます。
廣瀨さんはインタビュー中に「僕はまだまだ鉄のことも鋳物のことも分からないことだらけなんだよ」とおっしゃいました。そして、「だからこそ次はこうしてみたい、っていうアイデアもどんどん浮かんでくるんだ。まだまだ死んでられないね」と目を輝かせて続けました。最後に廣瀨さんが70歳になった際、「生涯現役」の金属造型家としての決意をしたためた、一編の文章をご紹介します。
「生涯現役」
鋳型に流し込む時一番緊張します。
重圧さと丈夫さにおいては右にでるものはない南部鉄器。
また 使い込まれたものには 独特の風格と誇りが漂ってくるものです。
鋳物という自然素材は何故か人をほっとさせます。
その特質を充分に生かしながら、使い勝手の良さと 美しいフォルム
しなやかなデザインで 柔らかさを添えなくてはいけません。
自分の手 自分の目 自分の感情で 一生懸命白紙の状態の中から
創り上げたものに 喜びを感じます。
神に感謝し いつまでも少年の澄んだ眼差しで、
仕事を楽しく 周囲の雑音に惑わされる事なく、
ゴールの見えない仕事を、
納得のいく作品を一つでも多く創っていきたい。
生涯現役の造形作家として・・・・・・
※馬場忠寛さん。鋳金作家で、のちに東京のデザイン事務所で廣瀨さんのデザイン指導をする。当時、通産省から盛岡に派遣され、デザイン指導を行っており、廣瀨さんとも親交があった。現在は長野県・飯綱高原でギャラリー兼アトリエを開き、精力的に創作活動をしている。
※※廣瀨信子さん。廣瀨さんが18歳のときに出会い、26歳のときに結婚。南部鉄器の使い手の立場で廣瀨さんにアドバイスをすることも。