ずっしり黒々とした蓋を開けると、グイっと煙突がせり出してくる変わったかたち。それなのに眺めているとどこか懐かしさを感じさせてくれる。それが南部鉄器のパン焼器、〈タミさんのパン焼器〉です。
この鍋ひとつあればいつでも簡単にパンが焼けるということもあり、「タミパン」はお子さんを持つお母さまたちに、時代を超えて愛されています。
そんな「タミパン」が生まれるに至ったストーリーを、戦後まもなくの食糧が乏しかった時代に、子どもたちを溢れんばかりの愛情で育て上げたひとりの女性の半生から紐解いていきます。
この話の主人公となるのは、みんなから「タミさん」と親しみをこめて呼ばれている女性、近江タミ子さん。大正4年の生まれ、御年104歳になります。
タミさんは宮城県登米市の呉服店の7人兄妹の次女として生まれました。タミさんの少女時代は、とにかく「のっつぉこ」でした。学校から帰ってくると荷物を家に置いて外に遊びに行き、おてんばをする毎日。家のお手伝いはお姉さんにいっさい任せきりだったようです。
そして当時の女性としては珍しいほどのスポーツマン。高等女学校時代にはテニス部に所属し、県大会にも出場しました。
タミさんは20歳のとき、石巻の金物店の跡取り息子である近江勤さんと結婚しました。金物店を営む近江家は、舅、姑、勤さんの兄弟4人に、住み込みのお手伝いや番頭さん、事務員さんがいる16人の大家族。結婚してからというもの、家のことから店の切り盛りまで一日中働き通しでした。
そんなタミさんと勤さんの間には、娘二人、息子一人の子宝に恵まれ、忙しいなかにも家族と仲睦まじい時間を過ごしました。
それは、戦争中であっても、日本中が貧困にあえいだ戦後の時代であっても変わることはありませんでした。
タミさんがその後の〈タミパン〉の原型となるパン焼器に出会ったのは、日本がアメリカからの食糧援助に頼り、配給制度があった時代でした。
ある日、タミさんは露店で銀白色をした、真ん中が煙突様にせり出した鍋を見つけました。「これでパンを焼いて子どもたちに食べさせたら喜ぶべな」
タミさんは迷わずこのパン焼器を買いました。
当時は食糧のみならず生活に必要なものがいっさい不足していました。鍋や釜、食器といったものは、戦争後に使わなくなった航空機用の「ジュラルミン」という金属で作られました。タミさんが見つけたこのパン焼器も、このジュラルミンでできていました。
また、米が足りない時代でもあります。アメリカから食糧援助として大量の小麦が送られてきました。タミさんはこの小麦を使ってパンを焼き、なんとか子どもたちをお腹一杯にしてあげたいと考えたのです。
タミさんの子どもたちは、この鍋で焼いたドーナツ型の珍しい形をしたパンに大変興奮しました。当時、砂糖は手に入りません。なんとか甘みがでるように、つぶしたかぼちゃを小麦粉に混ぜて鍋に流し込み、練炭火鉢のとろ火で数十分焼きます。冷ましたら、そのまま鍋を逆さにしてポンっと取り出して、できあがり。
「今日はパンでも焼ぐべ」
タミさんがそう言うと、子どもたちは七輪の周りに集まり、まだかまだか、とパンが焼きあがるのを楽しみに待っていました。
「今日のは少し焦げだね」
そんな言葉のやりとりも、パンを一層美味しく感じさせてくれました。
現在、タミさんは石巻でたくさんの人に囲まれて、幸せな日々を送っています。
時々、孫やひ孫たちから「パンを作ってほしい」とリクエストをされます。タミさんはパンを作っている最中に、何度も「パンに砂糖をいれだがな?」と確認をします。
当時、なんとか自分の子どもたちに、甘くておいしい、お腹いっぱいになるパンを焼いてあげようとしたタミさん。
「パンに砂糖をいれだがな?」
この言葉は、時がたっても失わることのない「甘いものを思う存分食べさせたい」という、タミさんの「母の愛」によるものなのでしょう。
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