前回は「タミさん」こと近江タミ子さんが、戦後まもなくの配給制度があった頃、ジュラルミンのパン焼器と持ち合わせの材料でパンを作りながら、家族と貧しくも幸せな日々を送っていた話を紹介しました。
今日は、日本が豊かになるにつれてその存在が忘れ去られてしまった「パン焼器」が、タミさんの孫娘によって、南部鉄器のパン焼器〈タミさんのパン焼器〉としてよみがえることになったお話を紹介します。
それは、タミさんと子どもたちが練炭火鉢のパンを囲んでいた時代からおよそ半世紀がたった、ある年のことでした。タミさんは思い立ったが吉日と、それまで手を付けていなかった納戸の整理をしていました。すると、納戸の奥から、底が使い込んで黒く焼けた、懐かしい銀白色のパン焼器が出てきたのです。
しばらくして、水沢にあるタミさんの娘の家に、タミさんをはじめ親戚一同が集まることになりました。賑やかな宴会も一息ついたころ、タミさんは久しぶりに再会したジュラルミンのパン焼器を使って、過ぎし日の出来事を思い出しながらパンを焼きました。
一同が待つ座卓に、ふわっと甘く香ばしいかおりの鍋焼きパンが運ばれてきました。タミさんと同じ時代を過ごした人たちは「懐かしいものを取り出してきたわねえ」と、当時に思いを馳せました。若い人たちは、変わった色の変わった形の鍋と、そこからでてきたドーナツ型のパンに興味津々でした。そんななか、ひとりの女性が、こう声をかけられました。
「くにちゃん!これ、南部鉄器で作れないの?」
「くにちゃん」とは、タミさんの孫娘である及川久仁子さんのことです。当時、家業である及源鋳造で商品開発をしていました。
くにちゃんはこのとき初めて、この「変わった色の変わった形の鍋」を見ました。そして、この鍋で焼いたパンを、幼き日の母や叔父、叔母が、練炭火鉢を囲んで、仲良く頬張っていたという話を聞きました。
「南部鉄器で作れないの?」という一声に、「それはいいね!」と一同が盛り上がるなか、くにちゃんは、
「そうですね……」
と少し困ったような返事をしました。
それまで及源鋳造でいくつもの南部鉄器の開発を手掛けてきたくにちゃん。しかし、ことパン焼器に関しては、「南部鉄器」と「パン」とが結びつかないのと、どうやったらお客さまに興味を持ってもらえるのかのイメージが湧かないのです。
その後もさまざまに思考を巡らせましたが、「南部鉄器のパン焼器」のアイデアはひとまず寝かせておくことにしました。
翌年のことです。親戚と再会するなかで、やはり話題となったのが「南部鉄器のパン焼器」。
くにちゃんは、まだ自分の頭のなかでイメージがつかめていない状況ではありましたが、周りの期待の声に押しきられる形で「南部鉄器のパン焼器」の開発に着手することにしました。
そんな折に、くにちゃんのもやもやとした気持ちを吹き飛ばしてくれる人物が現れました。
その人とは、及川喜久子先生。岩手県・水沢でコーヒーハウス「りょんりょん」を営み、地元・岩手のテレビで料理番組を持っている人気の料理研究家です。
以前、くにちゃんは商品開発の一環として、鉄鍋の料理のレシピを喜久子先生にお願いしたことがありました。
くにちゃんは、喜久子先生なら「南部鉄器」と「パン」を結び付けられるのではないかと思い、試作をした南部鉄器のパン焼器を見てもらうことにしました。
喜久子先生も、最初に南部鉄器のパン焼器を見たときは、その変わった見た目に「えー!」と驚いたといいます。かつてパン焼器というものが使われていたことは知っていましたが、いざ実物を目にしてみると、なんとも不思議な存在であったのでしょう。しかし、オーブンなしでもパンが焼けるというその鍋に、とても魅力を感じました。
実際にパンを作ってみると、最初は思ったような焼き上がりにならず苦労しましたが、
喜久子先生の持ち前の好奇心と探求心とで試行錯誤を重ねて、外はかりっと、中はふんわりの、理想のレシピに辿り着きました。そして抹茶やナッツ、フルーツといったトッピングをミックスしたレシピをいくつも考案しました。お母さんが子どもたちに毎日でも作ってあげたくなる、見た目にもたのしい、南部鉄器のパンのレシピがこうして完成しました。
くにちゃんは、喜久子先生のレシピで「南部鉄器」と「パン」の組み合わせに確かな手ごたえをつかみました。そして自分のなかでも、お客さまがパン焼器に興味を持ってもらうイメージが湧いてきました。
くにちゃんには当時4歳になる一人娘の円佳(まどか)ちゃんがいました。タミさんがそうであったように、自身も「子どもが安心して食べられて、作る時間も一緒に愉しめる。そんなおやつを作ってあげたい」と感じていました。そして、日本中に同じ気持ちを持つお母さん、お父さんがいます。タミさんが子どもたちにパンを焼いたストーリーは、時代こそ違えど現代の父母もきっと共感してくれるだろう。くにちゃんはそう考えました。
くにちゃんはこの南部鉄器のパン焼器の名前を〈タミさんのパン焼器〉としました。それは、昔使われていたジュラルミンの鍋を南部鉄器で作り直すというだけでなく、自らの祖母が子どもたちのために愛情いっぱいにパンを焼いた、その親から子への想いを、時代を越えて引き継いでいきたい、という考えからでした。
1999(平成11)年、晴れて〈タミさんのパン焼器〉の販売を開始しました。タミさんのストーリーと喜久子先生のレシピが添えられた〈タミパン〉は、南部鉄器として異例のヒット商品となりました。そこには「昔、自分も母親に作ってもらったんだよ」と懐かむお客さんが数多くいました。さらには、子育て世代のお客さまが、タミさんのストーリーに共感し、自分の子どもに安心でおいしいおやつを作ってあげたい、と考えて購入していきました。
ひとつのパン焼器をきっかけに、タミさんと子どもたちが過ごした思い出が、時を越えて孫やひ孫へと引き継がれていくことになりました。
くにちゃんは、〈タミさんのパン焼器〉を囲んで、親子一緒に「まだかな、まだかな」とパンが焼きあがるのを待っている。そんな家族の風景が、かけがえのない思い出として語り継がれていくことを願っています。