代表メッセージ

岩手という地

日本地図を広げると、及源鋳造がある岩手が国土の中でも、ずいぶんと北に位置していることを実感します。広域に及ぶ東北地方の中でも大きな面積を占め、4つの県を抱える四国と比較されるほどです。東北地方の真ん中を南北に走る日本最長の山脈・奥羽山脈となだらかな北上山地を両脇に抱え、山々の間に豊かな北上川が流れています。太平洋に面した三陸海岸はギザギザのリアス式海岸が続き、沖には世界三大漁場の海が広がります。

そんな岩手の冬は長く、5カ月ほど続きます。冬将軍を越えると待ちに待った春です。緑の田んぼにカエルが鳴く夏が訪れます。先祖供養の祭りがそこかしこで行われ、気が付けば駆け足で実りの秋に。そうしてまた、冬が来るのです。

 

 

 

岩手に伝わった「鉄」

岩手県南部の北上山地は、「鉄の山」の異名を持ち、古くから砂鉄や鉄鉱石が採掘されてきました。この地に根付く「鉄のものづくり」の文化は、7世紀以降の古墳群の副葬品として大刀や鏃などの鉄製品が出土していることから、その頃から地域的な発達が広がっていたと考えられています。沿岸部は現在の東北地方に居住していた蝦夷(えみし)*が使用する鉄製品の重要な生産地であったとされています。


*奈良~平安時代初期、当時の中央政権である大和朝廷に服属しない民を蝦夷(えみし)と呼んだ。坂上田村麻呂の征討により、多くが朝廷に服属したとされる。中世以降、この呼称は北海道のアイヌ民族にも用いられるようになった。(同じ字を書き“えぞ”と読む。)

現在も残る岩手県の2つの生産地の一つであり、及源鋳造がある奥州市の南部鉄器の始まりは、11世紀末に奥州藤原氏が平泉を築くために近江の国(現在の滋賀県)から鋳物師を呼び寄せて仏具などを作らせたことに始まると言われています。やがて奥州藤原氏が滅ぶと、岩手の「鉄」は農具や調理道具など、人々の生活を支える「暮らしの道具」へと姿を変え、長い歴史を刻んでいくことになります。

 

 

 

岩手の「暮らしの鉄」文化

及源鋳造の鉄器は、そんな岩手県南部の鉄文化を継承しています。

その昔、丈夫で長持ちする鉄器は、長く厳しい岩手の冬を支えた道具でした。そういえば、割れた鉄器を修理する鋳掛屋という商売もあったとか。鉄器は繰り返し修理し使い込むものでした。時代は変わり、長く大切に道具を使うことを「育てる」と表現することがありますが、昔から変わらない「暮らしの鉄」の当たり前のつかい方なのです。

人々の暮らしは目覚ましい速さで変化し、鉄器の形も多様に進化してきました。しかし、変わらないものが一つあります。及源鋳造が大切にしている、「鉄を鋳込む」というものづくりの姿勢です。砂で作る型に溶けた鉄を流し込むというものづくり。鉄や砂と向き合う手しごとを信条に、長く使い続けられる「暮らしの鉄」を作り続けています。

 

 

 

鉄に学び、人が愉しむ

「鉄を鋳込む」面白さは、溶けた鉄の流動性にあります。溶けて、流れ、やがて固まる鉄――。

及源鋳造の職人たちは日々「鉄」と向き合い、ご機嫌を伺ったり、褒めたり、ときには叱ったりしながら、その変化を見守ります。何も語らない「鉄」の表情を読み取り、ものづくりを愉しんでいます。

私たちは『鉄に”愉しい”を鋳込む』をミッションに掲げ、これからも鉄器づくりを続けていきます。つかい手のみなさまにも、共にあり続ける「暮らしの鉄」を存分に愉しんでいただけたら幸いです。

 

及源鋳造株式会社
代表取締役社長 五代目
及川 久仁子(おいかわ・くにこ)